「井の中の蛙」続きを付け足した人物と、込められた深い意味とは?
(下記は以前運営していたブログにて、ご好評だった記事の転載です)
「井の中の蛙大海を知らず」という
ことわざに続きがあるのをご存知でしょうか?
林修先生の『初耳学』でも
「いつの頃からか日本人が付け足した」
とだけ紹介されていましたが、
いくつかバリエーションがあるそうです。
放送大学の「もう一度みたい名講義」を拝見し、
改めてとても意義深い付け足しだと感じ入りましたので、ご紹介します。
- 1.「井の中の蛙大海を知らず(荘子)」元々の意味は「世間知らず」
- 2.「井の中の蛙大海を知らず」に付け加えられた言葉、誰が付け加えた?
- 3.「井の中の蛙大海を知らず」に付け加えられた言葉の深い意味
- 4.まとめ
1.「井の中の蛙大海を知らず(荘子)」元々の意味は「世間知らず」
元々は、中国の古い書物に書かれた教え(故事)から来ています。
「荘子 秋水編」に
「井(くぼんで水が溜まっている所、特に井戸)
の中の蛙(かわず=カエル)と海のことを語り合うことができないのは、
カエルは、虚のこと(くぼみ、何もないこと)しか知らないからである。
夏の虫と氷のことを語ることができないのは、夏の虫は夏しか知らないからである。
曲士(曲がった考え方をする人、あることに詳しいだけの人)と
「人の道」について語ることができないのは、自分の教えにとらわれているからである」
元々の意味は、「狭い世界に囚われていると物事がよく見えない。より大きな視点で物事を見渡すことが良い」とするものです。
これが日本に伝わり、「井の中の蛙、大海を知らず」という諺(ことわざ)になったわけです。
2.「井の中の蛙大海を知らず」に付け加えられた言葉、誰が付け加えた?
この「井の中の蛙」という「世間知らず」を意味する諺(ことわざ)に、「いつの頃からか」付け足しがされたようです。
いくつかのバリエーションがあり、「井の中の蛙」に続けて、
「ただ、空の青さを知る」
「ただ、天の広さを知る」
「されど天の高きを知る」
「されど地の深さを知る」
などがあるそうです。
近代日本で付け足したのは近藤勇という説を見かけましたが、定かではありません。
付け足しをした人物としてはっきりしているのは、教育学者の吉田章宏先生(当時・岩手大学教授、再放送時・東京大学名誉教授)です。次のように独自の付け足しをされていました。
井の中の蛙大海を知らず されど、井の中を知る大海の鯨、大海を知る されど、井の中を知らず
バリエーションは違いますが、これらの付け足しは、おおむね、同様の意味をもっています。
要するに、
「外の事は分からないけれど、中の事は知っている」
「外のことは知らなくても、自分の場所を突き詰めれば深みが出る」
といった事が示されています。
3.「井の中の蛙大海を知らず」に付け加えられた言葉の深い意味
吉田章宏先生の説明をご紹介します。
この言葉は、「もう一度みたい名講義~放送大学アーカイブス~ 」として放送されていた
『教育の心理(’95)~我々の世界の交響~』で、
次のような流れで紹介されました。
我以外総て師なり(作家・吉川英治)
という言葉を紹介した上で、
「あえて繰り返しを避けずに言うならば」と、つまり同じような意味として、次のように付け足します。
「井の中の蛙大海を知らず」
これは有名な、というか、よく言われることですが、
これに対して、
「されど、井の中を知る」
という事が言えるでありましょうし、
これを、もじって、
「大海の鯨、大海を知る」
と、こう言ったとするならば、
「されど、井の中を知らず」
と、いう事もできるでありましょう。
(教育学者・吉田章宏)
「人それぞれに、それぞれ独自の世界を生きている」「それぞれの人がそれぞれに尊いという事が当然のこととして、自然に出てくるのではないでしょうか」とまとめられた上で、華厳経に描かれる善財童子の話題に移ります。
(善財童子は様々な人々を師として仰ぎ、教えを乞う物語です。また、華厳経は、仏教の経典の中でも、一人ひとりの世界が全てを映しているという宇宙観を打ち出しているものです)
経験が少なくて、視野が狭いとしても、
必ず、その人にしか見えていない深みがあるものです。
この言葉を案出した吉田教授や、昔の日本人は、そのように一般には「世間知らずで未熟」と片づけられてしまうような存在
にとっても、その視野からしか見ることのできない深みがある
という事実を見ていたのでしょう。
さらに、この事実は、
社会におけるコミュニケーションがお互いの世界を大切にすることによって成り立つ、ということも教えてくれます。いつでも心に留めておくと役立つ見方です。
それは特に、何かを知らない人に教えるという場面でも重要です。吉田先生の講義では、「教育」が一方的に教え込むのではなく、相互に共に育つ事によって成立する「共育」である、と、あらゆる例をもって理解できるよう構成されており、後日談として、吉田先生は次のように語っています。
「母親の方からハガキが来ましてね、お子さんから
”お母さん、僕の話をよく聞いてくれるようになったね”
と言われたんですって。大変感激しましてね。私は理屈を言うよりも、
そういうことがもし一つでも起これば、素晴らしいことだと思っているものですから、とても嬉しかったです」
このエピソードからも分かるように、
「井の中の蛙、井の中を知る。大海の鯨、井の中を知らず」
の意味も、
相手には相手が見ている世界がある、
という事を認めることから、
コミュニケーションができ、また、「我以外すべて師」と仰ぐことによる「共に育つこと」ができる、という意味が含まれているのですね。
小学生の頃の私が「されど、空の青さを知る」に共感したのは、
「未熟者で視野が狭いと言われたって、
私が見ている世界を分かっていないじゃん」
という思いからでした。
が、それはそうですが、やはり世間知らずであったことは確かです。
「蛙の立場」に立って共感していたのです。
でも、「世間知らず」と頭ごなしに言われることには抵抗があった。
しかし、吉田先生が教えてくれたことは、
「鯨の立場」でもあります。
つまり、自分より物を知らないであろう相手にも、
必ず、相手の世界があって、
それぞれに深みがある、しかも学ぶべきものがあるということです。
自分が「井の中の蛙」「世間知らず」
つまり「無知である」と自覚するからこそ、
外の世界に教えを乞う、学ぼうとするということでもあります。
4.まとめ
「井の中の蛙大海を知らず。
ただ空の高さを知る」や
「井の中の蛙大海を知らず。
されど井の中を知る」
という言葉は「元々の意味にはない付け足し」です。
今回、素晴らしい講義をする学者さんである
吉田章宏さんによる付け足しでもある、
と知り、嬉しくなって記事にしてみました。
しかし、本当は、こうした権威に裏打ち
される必要がない程、
それぞれの人が、どのような立場であれ、
自分自身の見ている空の高さ、
その固有の直観を大切にして育むことこそ
が重要なのだと思います。
そのことをむしろ吉田章宏さんの
「付け足し」は教えてくれているのだと思います。